元宇品町の歴史

 この島の町名は明治37年から現在の元宇品になりましたが、それまでは安芸郡仁保島村字宇品島という名前でした。

 

 この島は広島湾に浮かぶ小島で、山の大部分は国有林です。明治17年に宇品港が作られる際、北側に皆実新開地先との間に堤防が作られ、残された水路に橋が架けられました。

 

 皆実新開地先には、宇品新開が作られ、これは同年20年には広島区、同22年からは広島市の管轄となって宇品町となりました。このため、宇品島は広島市に編入され、元を付けた名前が町名になりましたが、「向宇品」という別名も残っていました。そうしたことで、郵便局は最近まで「向宇品郵便局」と呼ばれていました。

 

宇品島は形が臥牛に似ていたことから古来「牛ノ島」と呼ばれていたという説が有力であり、また江ノ内と呼ばれた広島湾に位置することから「内の島」とも呼ばれ、そのあと「牛奈島」や「氏名島」などと呼ばれていったという説が有力です。

 

 「芸藩通志」によると、江戸時代の宇品島は船が停泊する地として、小深湊や西泊の港があり、民家は約40戸ほどありました。しかし明治12年の「共武政表」によると、戸数が80戸、人口が252人、船が70艘あり、産物は雑穀や甘藷、ブドウなどであったとされています。

 

 宇品港は、日清戦争で重要な軍事基地となりました。そのため、宇品島には信号所(今の宇品灯台)や要塞司令部の倉庫が設置されました。

 

 さらに島の東岸には造船所などが建設され、明治33年頃には南端に海水浴場が開かれるようになりました。臨済宗観音院には十一面観音が祀られています。また境内には横綱安芸の海の墓所があり、住吉神社は享保2年の勧請となっています。

オープンチャット

LINE公式アカウント

インスタグラム